歴史に見るロシアと日本の関係

日本語の「イクラ」「ルイベ」と言う言葉はカタカナで書かれることから外来語であることは気がついていた方が多いと思いますが、それがロシア語だということを知っていて更にその意味も知っていたという人は少なかったのではないかと思います。

日本語の中にロシア語の単語が輸入されたのとは逆に、日本語からロシア語に輸出された単語がもちろんあります。英語などにも入っている「ブシドー(武士道)」「フジヤマ(富士山)」など日本文化を表す言葉がその代表例ですが、意外なところでは魚の鰯(いわし)はロシア語では「イヴァーシ」、明太子は「ミーンタイ」と言います。嘘でしょという感じですよね。

どうやら文化を表す言葉以外に互いに輸出し合っていた言葉は魚介類の名前が多いということに気がつきますね。きっと昔から海で取れたものを交易してきたのでしょう。そこでロシアと日本とがどんなお付き合いを今までしてきたのかを少しだけ復習してみましょう。もちろんこのサイトの思想的な偏向は排除して事実だけを紹介するというスタンスは変えたくないですから、明治初年くらいまでを中心にお話しましょうか。

ロシアと日本が交流するようになる時代とはいったいいつごろのことなのかを、ちょっと考えてみることにしましょう。
そもそもロシア(この場合にはロマノフ朝のロシア帝国のことです)は、極東地域を中心とする国家ではありませんでしたね。ロシアは、現在のウクライナ共和国の首都キエフを中心としていたキエフ公国(882年に建国)周辺から起こったわけですが、理由は簡単で、ウクライナ地方は土壌が肥沃で作物がよく育ったことと、バルト海貿易の拠点でもあったからです。

ところでバルト海ではスウェーデンが勢力を張っていましたが、ロシアとスウェーデンとの戦争で、ロシアが勝利しバルト海に面したペトログラード(現在のサンクト・ペテルブルク)を獲得し、首都としたことがあります。つまりウクライナを中心として黒海・バルト海近くにまで広がっていたのが昔のロシア帝国ということです。ロシアの皇帝は、コサックとあるときには対立し、あるときには協調しながら勢力を東、北に広げます。日本と交易が始まるとするとこのころからのはずですね。ロマノフ朝が建国されたのは1613年、皇帝ミハイル・ロマノフの時代、スウェーデンと対抗したのは「大帝」の名前で呼ばれる皇帝「ピョートル」の時代。さらに後の時代となると、どうやら日本では江戸時代中期以降のことになりそうだということになりますね。まさしくそのとおりで、最初の出会いは実に平和的でした。

映画にもなっていますが、日本の商人「大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)」の船が漂流するという事件が18世紀に起こります。「光太夫」はロシア人に救われますが、「光太夫」の乗っていた船には、荷主から預かった高価な品々がたくさんあり、「光太夫」は大富豪と間違われてしまうのです。しかも「光太夫」は船の船長の地位にありましたが、当時のロシアでは「船長」は「貴族」の仕事であり、つまり「大金持ちの貴族」と間違われて、皇帝エカチェリーナ2世のいるペテルブルクまで行って、謁見、ロシアの風俗を見聞した後に1792年ラクスマンという人に伴われて、根室国に到着、当時の老中松平定信が対応に困ったというようなことがおこります。

次のレザノフという人も漂流民を日本に返還すると同時に、通商を求めようと来日し、1804年に長崎に来航します。ところが長崎奉行所で通商を拒否され、漂流民を返還しましたが、択捉(えとろふ)や樺太(からふと)で武力抗争が起きてしまいました。

ロシア側は平和な通商を求めてやってきたのですが、どうやら当時の日本の鎖国政策によって実現しなかったようですね。ロシアとは明治時代になってから日露戦争をはじめとする対立を繰り広げることになりますが、ロシアと日本は永遠に「近くて遠い国同士」なのでしょうか?

ロシア革命の後、資本主義の日本とは異なり社会主義国家の道を歩んだロシアは、そのあとも日本人にとって「未知の国」という印象が強い国だと思います。

ロシア語を勉強しようと志した皆さんなら「よき隣人同士」という関係を築き上げることができるのではないでしょうか。

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