外国語を正しくマスターする方法論とは?

語学オタクの筆者は常々、「語学をマスターする」という言葉は非常に安易に使われているというような気がしてなりません。「マスターする」というのはどういうことなのでしょうか?

アメリカ人などの中には「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「フジヤマ」しか知らなくても平気で「僕は日本語知っているよ」という陽気な人が結構いるのですが、日本人はなぜか語学というものについては特殊な感情をもっている方が多いような気がするのは私だけでしょうか?

「マスター」という言葉は非常に広い意味に使いますね。例えばちょっとした日常会話が出来るだけでも「マスターする」と言っていいですし、それこそ留学することが出来るくらいにロシア語が出来るようになるのを「マスターする」と言ってもいいですね。結局学習者の目的を果たすために必要な語学力を獲得することをマスターするというのではないかと私は考えています。

このサイトでは、日本の学校英語で言えば、文法水準は高校1年生(一部の特殊文法を除いて全てということ)、会話水準は最低限中学3年生の英語水準を目指しています。
私の個人的な経験では、普通にロシア語を読んだり、会話したりするのはこのレベルで十分に事足ります。それ以上に進みたい人もまずはこの水準を頭の中にきちんと整理して、いつでも口をついて出てくるようにするべきものだと 私は考えています。

私の尊敬する英語教師にこんな人がいました。この方はもう他界されましたが、当時70歳、現役で高校で教鞭をとっていましたが、この先生は一定水準の語彙力と会話力を常に維持するために、いつも例文集の暗誦と教科書の暗誦をしておられました。来る日も来る日も。なかなか出来ることではありませんが、語学の基本をマスターするというのはこういうことを言うのだなと学生時代の私は感動した覚えがあります。

要領よく頭に入れた後は、何度も何度も絶対に忘れなくなるまで発音したり、音声を聞いたりして勉強しましょう。これが外国語をマスターする正しい方法論であると私は信じています。

本当に学校で学ぶ英語は役に立たないのか?

英語以外の語学ではあまりこんなことを言う人がいないのですが、なぜか英語に関してだけは「学校英語は使えない」と言ってはばからない人がいます。私はいつもこれが不思議でなりません。
「辞書の例文の間違い」や「教科書に掲載されている古すぎる英語」の例などを指摘する書籍もいくつかありますが、ごく少数の正しい指摘意外は、全くの揚げ足取りに終わっていることが多いのではないでしょうか?少なくとも私の周りで翻訳家・通訳、また外国語を仕事に使っている人で、「学校英語的な考 え方」を蔑視する人はめったにお会いすることはありません。

では何故「学校英語は使えない」といわれるのでしょうか?
その理由は、「教科書は無駄なくタイトにまとめられすぎているから」ではないかと考えています。
学校英語の文法事項・語彙は実に無駄なくまとめられています。そして無駄がないということは一つの事項についてせいぜい例が1つか2つで、「慣れ」が身につかない人がいるということではないかというのが私の考えです。

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