10分でわかる!ロシアの歴史についてまとめ

現代史は歴史ではないという人が歴史を研究する専門家の方々の中には大勢おられます。「歴史ではない」という彼らの主張の意味は、「現在にあまりにも近接しているために、解釈に利害関係が絡んでしまい、客観的な分析をすることができない。歴史とは確定した過去の資料の厳密な理解によって構成するものである」ということのようですね。

私もそれに近いスタンスは持っています。少なくとも書籍という形で第三者が読むことを想定して書く場合には、「私の思い込み」を読者が「客観的事実」のように信じてしまうことがあってはいけないですから、教科書に書けるくらいの確定した事実だけをここに書きたいと思います。

ですからこのコラムで書く事項は「基礎知識」に過ぎません。しかし逆に言えば、どこで引用しても誰も反論しないことが書いてありますから、使い勝手はいいかも知れませんね。ではロシアというものについて簡単に説明することにしましょうか。

西ヨーロッパとして知られる地域はその昔ローマ帝国が領土を所有していた地域ですが、西暦375年から始まるゲルマン民族の大移動(ローマ人は「皆殺し(375)」と覚えます)の後、ゲルマン人が作り上げた国家フランク王国が様々な国の起源となりました。即ち西フランク王国からは後のフランスが、中央フランク王国からは後のイタリアが、東フランク王国からは後のドイツが生まれます。

細かなことはいろいろあるのですが、要はゲルマン人たちが、ローマ人の文化の影響を受けて作り上げたキリスト教国家群というのが西ヨーロッパの特徴と言ってもいいでしょう。ここまでは高校世界史の時間に勉強したことがある人も多いのではないでしょうか。

では東ヨーロッパと呼ばれる地域、そして更に東に進んで旧ソ連の領域はどうでしょうか?
教科書などでは辺境史ということで簡単に書かれているだけですし、授業でもあまり時間を割いて説明してもらっていない人が多いかも知れませんね。でも教科書的な知識を拾うだけでも結構いろいろなことが書かれています。

ゲルマン民族はもともとバルト海や黒海の付近にいた民族なのですが、ここにフン族というアジア系の民族が侵入し、ゲルマン民族の一部族であった東ゴート王国がフン族に支配されたことから、他のゲルマン部族がローマの領土内に逃げ込み始めたことがゲルマン民族大移動の外的要因といわれています。フン族はアッティラ大王という人によって率いられていましたが、アッティラの帝国もその死後分裂し、フン族が継続的に東ヨーロッパを支配することはありませんでした。ゲルマン民族が抜けてからその地域にはゲルマン民族がいた時代にはその豊かな地域に入り込むことが出来なかった民族が次々に入り込んできます。

まず第二次民族大移動と呼ばれるノルマン人たちの移動が起こります。ノルマン人とは分かりやすく言えばバイキングたちのことで、陸上で活動する狩猟民族であるゲルマン人に対して、海で活躍する民族です。ゲルマン人は西ヨーロッパの内陸に既に根を張っていましたから、得意の海の移動で、フランスのノルマンディー半島に移動し、ノルマンディー公国という国を作ります。そしてこの国からウィリアムという王が当時イングランドを支配していたゲルマン人出身の王様ハロルドを追い出して王位につき、ノルマン王朝という王朝を形成します。(これを世界史では「ノルマン・コンケスト」といいます)別の一派はイタリアのシチリア島に侵入して「両シチリア王国」を形成しました。かれらが造ったほかの国にはデンマーク、スウェーデンなどがあります。

ノルマン人たちは西に海を経由して移動していきましたね。また寒い地域は空白地域となりました。そこに流れ込むのがスラブ系の人たちです。

現在のロシアの地域では862年にノブゴロド王国(「販路(862)に建てたノブゴロド」と覚えます)が、882年にキエフ公国(「派閥(882)は消える(キエフ)」と覚えます)が建国されました。ノブゴロド王国を建国したのはローマ人たちがルス族と呼んでいた民族出身のリューリックという王様ですが、この「ルス族」という名前が「ロシア」と言う言葉の語源になっています。ノブゴロド王国もキエフ公国も交易で栄えた国ですが、ここにアジアからモンゴル人が攻めてきます。1241年「リーグニッツの戦い」です。この地域にモンゴル出身でチンギス・ハーンの孫のバトゥという人が攻めてきて「キプチャク汗国」を建国、スラブ人たちもその支配に服しました。そんな状態を駆逐して国家を形成したのは「モスクワ大公国」です。当時の王様の名前は「イヴァン3世」。「意志は旺盛(1480)イヴァンさん」と覚えてください。そしてこのモスクワ大公国で新たに使われるようになった王の称号が「ツァーリ」です。「カエサル」という人の名前をロシア語風に読んでものですが、つまりは「皇帝」の称号を使い始めるのです。これはどうしたことでしょうか?

西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされてしまいますが、西ローマ帝国はローマ・カトリック教会の保護者で、東ローマ帝国はコンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)の保護者でした。保護者を失ったローマ・カトリック教会は、イスラム教徒が活動を開始する7世紀頃から強力な保護者を求めていて、西暦800年にゲルマン民族の国フランク王国のカールという人に「西ローマ帝国皇帝」の地位を与えることを条件として保護者になってもらったのです。この「西ローマ帝国の皇帝の地位」はフランク王国からオーストリアの神聖ローマ帝国に受け継がれ、それゆえハプスブルク家は王様ではなくて「皇帝」なのです。

ではコンスタンティノープル教会がどうなったかを調べてみましょう。東ローマ帝国は実はイスラム国家であるオスマン・トルコに滅ぼされていました。1453年のことで「いよいよ降参(1453)、東ローマ」とでも覚えればいいですが、こちらも保護者を求めていますね。そこで白羽の矢が立ったのがモスクワ大公だったというわけです。

このモスクワ大公国も後継者争いが続き、17世紀に大貴族であったロマノフ家からミハイル・ロマノフが登場して皇帝位を受け継ぎます。これがロシアのロマノフ朝です。「ロシア皇帝」という言葉がありますが、「東ローマ帝国の皇帝」という意味だったのですね。そしてコンスタンティノープル教会の保護者ですから、西ヨーロッパがカトリックなのに対してこちらは「ギリシア正教」です。どうやら西ヨーロッパが、「ローマの伝統文化」と「ゲルマン人」、「カトリック」の3つの要素が混合して出来上がったものなのに対して、ロシアとは「スラブ人」「ギリシア正教」が少なくとも重要な要素だったようです。

文化的にはどうかと言えば、東ローマ帝国自体が西ローマとちょっと異なっていて、皇帝の権力が極めて強い国でした。もともとローマには共和制の伝統があって、皇帝に権力があってもそれを表に出さなかったのですが、東ローマに至ってはオリエント風の強い権力を表に出していました。「教皇皇帝主義」とか「皇帝教皇主義」とか言われる伝統もあり、「東ローマ帝国の皇帝」イコール「コンスタンティノープル教会の最高権力者」という構造を持ちます。地上の最高権力たる皇帝と天国の使者としての教会権力のトップの二つを兼ね備えた権力です。更に「東ローマ」と「ローマ」と言う言葉は使っていても、使用されていた言語はギリシア語が中心で、ギリシア系の知識人たちが活躍する国だったことも特徴的です。東ローマ帝国がオスマン・トルコによって滅ぼされた後に、領土内のギリシア系知識人たちが西ヨーロッパに逃げ込んで、ある文化運動が起こりました。それがルネサンスです。ルネサンスが人間性の復活を唱えるとき、キリスト教の影響を受ける前のギリシア・ローマの古典をその理想としたのはこのような事情もあったのです。

さてロマノフ家のロシアに戻りましょう。ロマノフ家には「大帝」と呼ばれる偉大な皇帝が生まれました。「ピョートル大帝」です。彼は西ヨーロッパ諸国と比較してロシアが文化的に大変遅れているということを自らの西ヨーロッパ視察旅行の中で悟り、次々に改革を行いました。当時のロシア人貴族が長いひげを生やしていたのに、「ひげを伸ばしている者には税金を課す(ひげ税)」ことにしたのも「西ヨーロッパ」にあこがれた「ピョートル」ならではのことでした。彼の時代にロシアの近代化は大いに進展します。

それだけではなくロシアの領土自体も拡大していきました。当時は現在のロシア共和国を中心とした国土であり、それ以外の地域は独立性の強いコサックと呼ばれる人たちが活動する地域でした。彼らを積極的に活用して領土の拡大を図ったのです。このようにコサックの強力を得て領土拡大するのはモスクワ大公国のイヴァン4世(「雷帝(らいてい)」というあだ名のある気の荒い皇帝)の時代にあって、コサックの首領イェルマークを使って開拓していますね。

ついでにロシアの貴族階級についても少しご説明しておきましょう。西ヨーロッパ史を紐解くと王様以外にも様々な貴族たちが活躍していて時には王様や皇帝に反旗を翻しますね。オーストリアの皇帝ハプスブルク家の永遠のライバルと言えばザクセン選帝侯、スペイン国王の永遠のライバルであるアルバ公爵、フランス王のライバルであったブルゴーニュ公爵など、ロシアではあまりこんな方々のお話は聞かないですよね。反乱があったとしてもコサックの反乱が中心で、ピョートル大帝の即位前後の「ステンカ・ラージンの乱」や啓蒙専制君主(啓蒙主義の影響を受けた皇帝)であるエカチェリーナ2世の頃の「プガチョフの乱」はいずれもコサックの反乱です。

このヒントはロシアの皇帝は強大な権力を持つ東ローマ帝国皇帝の地位を受け継いだものであるということと、西ヨーロッパの封建制に対して、ロシアでは農奴制が中心であったことが上げられます。西ヨーロッパの騎士階級(貴族・王)たちは若い頃に先輩の騎士の従者(弟子)になって騎士としての技を学ぶというゲルマン人古来の伝統(従士制度)と同時に、有力な騎士に自分の土地を寄進して、その代わりに有力騎士から自分は代官に任じてもらうと同時に庇護を受けるというローマの伝統(恩貸地制度)を結びつけたヨーロッパ的な封建制度に服していましたが、つまりは騎士階級に王から貴族に至るまでグラデーションのように中間層が存在しました。ロシアでは領土の農地を耕作するものは土地からの移動を許されない不自由な農奴階級であり、つまりは各貴族は農奴たちに土地を耕作させてその上がりで食べている人たちでした。貴族の力は土地の大きさと生産力で図ることが出来て、貴族の中で最大の権力者であるロマノフ家は大きな富をもっていました。更にロマノフ家は「皇帝」の身分という特別な身分を持つ特権階級です。中間層が存在しないロシアにおいて「皇帝」は絶対だったのでしょう。まさに東ローマ帝国の図ではないでしょうか。このような体制の中では皇帝に対抗しうるような大貴族勢力は生まれにくそうですね。

さて、このようなロマノフ王朝の繁栄は20世紀まで続くのですが、最後は有名なロシア革命で皇帝ニコライ2世が処刑されたことをもって歴史あるロマノフ王家は滅亡したのです。あとは社会主義の歴史にも関係あるところであり、政治的な価値判断が入り込むと客観的なお話がしづらいですから、ごく簡単に教科書的なことだけを書いておきましょう。レーニン率いるボルシャビキは「プロレタリアート(労働者)独裁」を唱えて従来の身分制度を破壊、改革派の貴族たちが国会(ドゥーマ)を開催して、議会政治を穏健派社会主義者のメンシェビキも巻き込んで実現しようとするも挫折という流れの中で革命が起こったのでした。時に1917年のことです。「革命得意な(1917)ロシア人」と覚えます。

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